読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

ブナ日記

ブナの木が大好き!ブウブウ文句も言ってます、てなことで ブログではブナと名のってます。カメキチのつれです。これは 私的備忘録です。

在宅で看取る&未知の領域へ

看護師=オールマイティなわけない

 

当時22年間の看護師経験があったといえど 小児科経験が一番長い

母の看護では 図らずも 母が入院していたF病院の整形外科病棟での経験が一番役に立った

一般的な整形外科(骨折やリュウマチなど)以外に、交通事故や労働災害などで脊髄損傷の患者さんが多い病棟だったからだ

(ここで 患者さんから教えていただいた事は と~っても大きい)

 

2時間ごとの体位変換や清拭、褥瘡ケアや導尿処置、それらの経験があったからこそ

母を連れ帰る決断ができたのだと 今は思える

****

ムムム!!

今 気がついたぞ

母が帰ったのは 7月9日

カメキチどんが 怪我したのは7月10日

何の因縁じゃ~~~っ

 

…関係ないか…

****

先ず看護日記を書く

誰が来ても母の様子が分かるように

 

バイタルサイン(体温、脈拍、血圧)

一日の水分摂取量と排泄…大まかではあるけど

母の様子

 

一週間は 緊張の中で過ぎた

反対していた医師からの退院後の支持は何もなし

痛み止めと眠剤のみ処方されただけ

だから 入院中は使っていたインシュリンもなし

自呼吸はあり、酸素吸入なし

 

管から解放された母は

家へ帰ると 表情は和らいだ

 

癌による痛み止めの坐薬は、病院と同じように時間ごとに当初は使用したが、母の様子を見ながら適宜に挿入する

眠剤も、帰宅後はウトウトすることが多く それも適宜に

病院と大きな違いは “母の様子を見ながら”判断するのは医師ではなくわたし

 

尿管が長く入っていたので、帰宅後 便尿意感覚がなかなか戻らず

出るという時はすでに出ている状態、母も私も この排泄に振り回された感じだ

トイレに行きたいと言うので抱えて座らせたが 結局出ず

身体が固くなっていて それがしんどかったか、後言うことはなかった

尿瓶も間に合わないことが多かった

一番大変だったのは 形ある便にならず 水様便なので背中へ回る事しばしばあり

私が熟練の技を持ち 今の品質の良いおむつがあったら、母はもう少し楽だったかも…

 

すでに大きな褥瘡があり、これ以上ひどくさせないため 夜間2時間毎の体位変換(それでも 時々は自分で体位を変えることもあった)

 

起床後は全身の清拭とガーゼ交換

 

はじめは恐る恐る 経口的に水分をあげはじめた

入院中あんなに吐き気に苦しんだ母だが 少しずつなら飲める

それからは 母が飲みやすいものを考えて吸い飲みで飲ませた

(慣れてくると せめて300ccは!なんて欲張るもんで 強制する口調になった

見舞いに来る者に 「娘に 叱られるから飲む」なんて言う母に ちょっと傷ついた)

 

意識程度は 家へ帰った状況の認識はあいまいで 

時々つじつまの合わない言動もあったが 興奮することは無し

 

4日目 安楽椅子に座らせる

入院中 リハビリもなく 身体が硬直してしまった母には 苦痛だったようで

自ら望むこともなし

見ているのかいないのか テレビへ眼をやっていることが多かった

 

一週間目の16日 引き上げの時に亡くした長男が「さっき ここへきて、もう少しゆっくりしておいでって言われた」と言った

葬式がどうとか…意味がちょっと分からない事も言われたが、母も死について考えていたのだろう

死への準備、そんなものは第3者の立場でなら考えたことはあった

でも 死を前にした母の相手をするには 力量不足

きっと母は そんなことお見通しだったのだろう

答えに困るようなことを 聞くことはなかった

 

本音は 母が 今何を思っているのか 聞きたかった

 

時々 父に手を握ってもらう

好きだった煙草を 一服、2服と飲ませてもらう

そんな父母の姿をしばしば見た

何より 心配していた癌の痛みは 座薬でコントロールできていた

母の苦しむ様子を見ることが無いから 父も安心して母の側に行けたのだ

f:id:buunanome:20150719114352j:plain

 

いつもそばに居るわたしに 「娘と喧嘩したんか?」と聞くので「何で?」というと

「だって お前いつも居るから」

ガクッ!!時々 真顔で言う母

 

2週目になると ちょっと固形のものも食べたいと言い ほんの少しだけど食べられるようになった

週2回 ただ点滴500mlをしに来てくれるだけだったけど

(針を抜いたり、漏れた時は刺し直しした) 

医者が診ているというのは 父や姉妹にとっては 心強かったと思う

(わたし? 医師には 多くを望まないって学んでいたから…)

 

今なら 介護保険があり、訪問医療、訪問看護の考え方も違ってきている

介護者のメンタル面でのケアにも 目が向けられていると思いたい

 

我がつれあいは 夏休みに入ると子供たちを連れてきた

父を連れ出し 気分転換もしてくれた

孫達は 母の側に居て ジュースをあげてくれた

母を家へ連れ帰ってからは 結局一度も家へ帰っていないわたしにとって

わが子たちに会うのは ホッとする時間

わたしの不在に 子供たちは文句ひとつ言わず

 

姉は 自分の家族の大きな難問を抱えながら、外食チェーンで、昼夜 目いっぱい仕事をしていた

80歳前の父は 父なりに母を気遣ってくれるが 一旦寝たら起きない人

 

つまり、夜間も体位変換や排泄はわたしの仕事

何時 母の呼吸が止まるのか?との恐怖

背負った責任が ジワジワと

夜ごと 重さを増してくる

 

3女は クリーニング店の自営業で大変

4女は 椎間板ヘルニアで母と同じ病院に入院

手術後は絶対安静

(自分が動けるようになるまでは 母の事よろしく!と強く頼まれていた)

5女は 幼い子供二人に 義父母と同居の共稼ぎ

養子に出された6女もまた 武生で同じような状況

 

それでも、みんな 入れ替わり 顔を見せてくれた

入院中より 言葉も増え 笑顔も見せる

(いつもいるわたしには 見せない笑顔で)

 

実は今まで 葬儀の後 泣けて、泣けて悲しかったのは

看取る間 母に「ありがとう」と言ってもらえず、母は心の中で家へ連れて帰ったわたしを恨んで亡くなったのではないかと(みんなは 否定していても)

強く 思っていた

 

でも 読み返していたら 日記には 体位変換やおむつ交換時

たま~~~~に 小さく「ありがと」と言われる度に 

嬉しくて 書き記していた

10回くらい!

回数の問題じゃないけど

そんなことも忘れるくらい

日記にも 「ありがと」と言われる度に書いていることに 自分でも触れていた

 

日が経つにつれ 水分は 調子よいと500cc

そんなんでも 人間は生きられる

母から学ばせてもらったことのひとつ

 

この夏 奥尻島に大きな地震があった

冷夏と言われる天候不順な日々

元気な私でも肌寒く 雨も多かった

 

姉 何やかや心労があり頻脈発作があり通院 それも気になる

2週目くらいになると妹達や父に任せて 小一時間ほど 自転車で近くへ買い物に行った

唯一 気がゆるむ時間だった