ブナ日記

ブナの木が大好き!ブウブウ文句も言ってます、てなことで ブログではブナと名のってます。カメキチのつれです。これは 私的備忘録です。

母の死

8月になり 自分の精神状態があやしくなってきた

イライラしてしまう

マイペースの父に

何度も起こす母に

たまに顔を見せて帰っていく妹達に

 

母のこれからの事???

仕事の事

子供たちの事(つれあいの事?そっちは心配してなかったなぁ…)

 

そばで寝ている母の顔を見ながら

イライラする自分への自己嫌悪

心が折れそう…って、こんな感じ?

 

子供たちが帰る時 すべて投げ出して 一緒に帰りたい

 

けれど わたしが居なきゃ 母を看る人はいない

自分が決めたんじゃないか!だから、口には出せない

 

終日ウトウト むしろ昼夜逆転している母

静かな寝息の母 

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人は赤ちゃんに返るって ほんとだなぁ~

と優しい気持ちで 母を看ている時もある

そんな時は 少なくて 

あれこれ考えだすと

もう お先真っ暗

 

職場は落ち着いているから 気にしなくていいとの電話を貰ったけれど

いっそ退職願を出すべきか

 

9月から新学期

子供たちのお弁当は?その他モロモロ細かいことまで…

 

広島の義母も7月26日から人工置換術の為入院していた

義母をなおざりにしている後ろめたさ

 

見舞いに来る妹達が 意地悪にも お気楽に見えてくる

そんなわたしに「なんかへんやで、どうかしたん?」と言ってくれるけど

本心「帰りたい」なんて 言えない

 

8日 術後の4女 外出許可がでた

母を見舞う

母 シクシク泣く

 

10日 バイタルが落ち着いているので 思い切ってシャワー決行

でも 母にはしんどかったようだ 

喜んでもらえなかった 

凹むわたし…何を期待していたんだろ

 

18日仕事を終えた3女が 抹茶ムース持参でわたしの45歳を祝ってくれる

(この時の容器 今なお現役 見るたびに思い出す)

 

22日 退院後初めて38.0度の発熱 下痢が続く

気を張っているからか ちょっとしたことで涙が ちょちょぎれるわたし

なのに 自分以外の人にはおだやかな態度を見せている母

そう見えるだけ…じゃない

妹達は 「母なりに気を使っているのだろう」という

そう思えないから ちょちょぎれる

(ここら辺の心理は 経験者なら分かってもらえそう)

 

辛かったぁ…

 

水分…お茶以外、母の好物のメロン、スイカを絞ったもののほか.カルピス、カロリーメイト、ミルクセーキ、桃など

固形のものも 時々欲しがるものは少しづつ…おにぎり、煮ソーメン、粥

でも、それらはほとんど味見程度

腹鳴がよく聞かれ 下痢をする

吐き気はあっても、入院中のような嘔吐はなし

(カメキチどんみたい)

 

9月に入ってすぐ 3,4日おきに悪寒、発熱する

悪寒が来ると「いた~い、いた~い」と子供がぐずるように言う

栄養状態悪化によるものなのか、往診する医師も首をかしげる

便汁とともに座薬も出てしまうので 効果は分からないが 熱は下がる

 

浮腫が手足に 見られるようになる

確実に 身体は弱ってくる

 

声かけには答えるが 見舞いの者が居ても ウトウトすることがだんだん多くなる

かと思うと 急に姉や父の名前を大きい声で呼んだり、夢の続きのような意味不明の事をはっきりした声で話す

 

わたしの 母への態度を気にして 妹から電話があったり

妹達が泊まってくれ わたしを休ませようとしてくれる気遣いをしてくれる

 

父は 介護の戦力にはならない

「おい、母ちゃん ずっと寝ているけど(水分を)飲んでいるんか?」なんて

他人事みたいに言う時は モォ~ッと腹が立つ

意地悪く 父に頼み 飲ませてもらう

母が飲んでくれると 嬉しそうな父

 

9月下旬になると 時々の吐き気と口内がネバネバして気持ち悪がる

痰を取る為の ティッシュを使うことが多くなる

割りばしに脱脂綿をまいて 口の中をきれいにする

うがいも 母は上手にできた

 

脱水症状が強まったが 水分は500cc前後摂れている

9月25日タール便 下血がはじまった…

 

28日往診 結局 血管に針が入らず 点滴できず

医師は 「あと2,3日かな」と 聴診のみして帰る

 

姉に「ごめんね、ごめんね」

「○○に ありがとうと言ってくれ」

父の名を呼ぶ…「と~ちゃ~ん」そこに居るのを確かめるように

 

父 自分から 母の背中や足のマッサージをする

 

9月29日の洗髪 嫌がらない

全身の浮腫目立つ

 

死期はもうそこに…

そんな状況を分かっていたのに

10月1日 母を父と姉に託して 家へ帰った

 

9月も半ば 姉に ジレンマに陥った自分の気持ちを打ち明けた

それまで 手伝うという感じだった姉

死期の迫った母に 「最後くらい親孝行する」と言った

職場に掛け合い、10月から、平日の休みをもらえた

土、日は わたしが帰省して代わり、父も妹も協力してくれることになっていた

 

10月1日は 長女の20歳の誕生日

身勝手だと分かっている

逃げるんか!と 思われるのも嫌やけど

わたしにとって 大事な日

我が家へ帰りたかった

 

看護日記は 姉に引き継がれた

10月2日 「汽車が出るんやけど」と母

      姉「行きたいんか?」

      「ウン」母

***銀河鉄道みたいな汽車かなぁ***

 

妹達も.泊りに来てくれた

父は (わたしがしていたように)頼んでもいないのに掃除をする

わたしが居なくなら みんながたくさん母にかかわってくれた

母 熱も出ず おだやかにウトウトしている時間が多い

5日くらいから 尿量が減ってきた

うわ言のように何か言うが 聞き取れず

姉の不安な気持ちが 行間からうかがえる日記

 

10月9日一家で帰省(代わりに、姉仕事へ)

出血傾向なのか 身体のあちこちがうっ血

足の指 壊死しているような色

呼吸、苦しそうではないが 痰が絡む

チアノーゼはない

 

10日も11日も休日、妹達も入れ替わり、見舞いに来る

母は 痩せて大きくなった目を 時々 ぎょろり開けるが 後はウトウトしている

 

11日13時半 座薬を入れた後 目を開けている母

何か言いたそう

耳を寄せて聞く

「5人、5人」

「呼んで」

「おいしゃさん」…断片的なことば

 

「わかった、母ちゃん!心配せんでもええで」

「お医者さん、明日来るし」

「先いれた座薬で 楽になるで」…意味も分からぬまま 答える

それが 最後の言葉になった

 

かすかにうなずいた母

14:35 ぶどうジュース一口

それからしばらくして つれあいと買い出しに出た

母の寝ている隣では 孫や娘達が賑やかだった

 

15:55 帰宅後 すぐ母を見る

誰にも気づかれず 開眼のまま 母は下顎呼吸をしていた

喉の奥で絡む痰を 必死に取り出しながら

つれあいに主治医を連れて来て!と頼む

16時 母は最後の息をした

 

主治医は 16:25来る

16時をもって死亡と診断された

ちょうど居た4女と最期を看取った

 

姉に連絡したが なかなかつながらず

泣きながら妹達と

骨と皮になった母の身体をきれいにした

死後の処置もした

 

退院すれば 1週間の命と言われた母

(後日 姉が病院へのあいさつ時に婦長からねぎらいの言葉があったと聞いた)

 

自分の命を きちんと生き切った母

孫達には 初めての「死」

母の闘病は 孫達にも

こんな場面に 慣れていた自分にも

ことばに言えない大きななにかを 確かに残してくれた

 

今なら 母が身をもって示してくれたのだと 素直に思える

 

母は わたしにとって いつも反面教師だった

 

家で看取ったことが 母にとって最善だったか?と問われれば

「わからない」

最後に 逃げちゃったなぁ…と後悔はずっと残るだろう

 

母の事があるから

わたしは カメキチどんから 逃げまい

これは 母からの試練なのではと 思う時もある

女が廃るぞ!

 

ただね、一言

わたしのように 弱音を吐くのは恥と思うヒトには

話を聞くだけでもいいから

さりげなく 支えてあげたい

 

で 見てもらう側になったら

ありがと!って 

さりげなく 口にすると

わたしは かたく心に決めている

カメキチどんのように 始終言いっぱなしも 確かにありがたみは半減するけどね

 

実は わたしも母に似て なかなか言えない

特に 身近な人たちに

だからこそ 老いるにつれ

ありがと!を 意識しようと思う

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かあちゃん、終わったで~

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