ブナ日記

ブナの木が大好き!ブウブウ文句も言ってます、てなことで ブログではブナと名のってます。カメキチのつれです。これは 私的備忘録です。

岡田内科

自転車組合では お弁当持参

冬のある日 同僚が 近くの市場のサラダが美味しいというので 

昼休みに出かけた

その通り道 内科医院の看護婦募集の張り紙が たまたま目に留まったのが 転機になった

 

ゆる~い雰囲気の 今の職場は 居心地が悪いわけではなかったが

「看護」という仕事へ復帰したいという思いが 張り紙を見て だんだん大きくなってくる

 

交代制なら無理だが 医院ならば できるのでは??? 

当たって砕けろで 履歴書持参 

学校も了解してもらい、日勤という形で 1975年4月から雇ってもらえた

 

いつだって 新しい職場になれるのは 得意ではない

が、生活がかかるならば たいてい頑張れる

 

准看護師2人に事務員2人、老先生と若先生の2人の医者という構成の中に

ほとんど説明もないまま 

「正看ならわかるでしょ!」みたいな感じで いきなり注射の指示

 

今も 忘れがたいあの時

奇しくも つれあいの 今 命の元であるVB12の注射だった

周りを見ても 取りつく島がない雰囲気で…

ここで ちゃんと聞けば良いものを…

今なら 間違いなくそうするが あの時はできなかった

出来ない人間と思われそうな…

恥ずかしくって…

 

これは点滴につかったことがあるから静注かなと思って用意

患者さんに向かうと 年輩の看護婦さんから 待った!がかかる

「それ、筋注でしょ」

 

その一言 

お先真っ暗…

場違いなところに 来ちゃったのかなぁ…

患者さんの前で 

初日から 赤っ恥かいてね、

その日どうやって一日過ごせたんだか 記憶にない

 

教訓 『分からない時は 聞くべし』

恥ずかしいとか、プライドとかそんなもんは 身を誤るもと

とはいえ、これがまた、難しいけどね 

 

出だしは悪かったが 日がたつにつれ 仕事も覚え 職場にもなじんでいけた

 

一見ツンとして 冷たい印象だったMさんも 話してみれば 同年齢 

悩みを打ち明けあえる友達になった

年輩の看護婦さんも無口だけど 底意地が悪いわけではなかったから

 

新しい職場って 慣れるのには どうしても1~2か月はかかるものだ

 

老先生は 現役だけど 昔からの馴染みの人だけを診ておられ 

実権は若先生にあった 

患者さんへの対応も適切で このDrのもとでならやっていけそうだと思え たのが 続けられた一番の要因だ

尊敬できない医者なら 仕事といえど 割り切れるもんではない

結局 19762月学校卒業し 福井へ帰ることを決めた時まで勤務した

 

診療介助の他 採血や注射、心電図をとること、レントゲン写真を暗室で現像したり 薬を小分けに包むこともここで覚えた

ここの経験は ずっと後県庁の診療所で働くときに どんなにか役に立ったことか

無駄なことはないもんだ

 

個別に 思いだせる患者さんは居ないけれど

Mさんが 静注している最中 心停止した患者がいた

若先生が 診療を中断し 心臓マッサージ、輸液のラインをとるのに静脈がなかなか見つからなかったことや、救急車が来て、Drがそのまま付き添って名大へ搬送していったケースには、肝を冷やした

注射ひとつでも 注意深く患者の顔を見ながらすべしと!

 

暗室で 何枚ものレントゲン写真の現像中 

眠気に勝てず 

レントゲン写真がくっついてダメにした失敗もある

 

ある日 右下腹部痛で 若先生に見てもらい 

採血し、鏡検で白血球を調べて、虫垂炎かどうか しばらく2階で横にならせてもらった 

手術になったら…などと不安な気持ちで休んでいたのも忘れがたい思い出だ

結局 痛みがマシになり つれあいが迎えに来て 

長女と3人で とぼとぼ帰ったこともある

 

わたしが辞めた後 Mさんから 若先生の家族とイギリスに来ていると手紙をもらった

うらやましい気持ちが 少しだけ…いや、たくさんあったっけ 

 

若先生には いつでも戻ってきてと 言われたんだよ 

辞めた時には 少しは信頼されていたのかな、な~んてね

 

今 岡田内科は 地域医療に力を入れて 大きくなっている

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